修理してまた着る意味

17歳の時買ったMA-1。

もう40年以上昔のジャケットになる。

20代前半の頃、仕事先でカウンター上に溢れていた希硫酸に気付かず肘をついてしまい、布地を損傷してしまった事があった。

母に相談したら両肘部分にレザーの肘当てを縫い付けてくれた。

とても自然な感じに仕上がっていたので、最初から付いているものだと勘違いされる事もしばしば。

愛着があって気に入っていた洋服は、着倒す事で定期的なリペアが必要になってくる。

リブ部分のほつれの様な簡単なものは、自分で修理していたが、ポケットに出来た穴だったり、縫い目が裂けて脇部分がパッカリ空いた時などは、当時高校生だった娘に修理してもらった。

 

40代中頃まで普段着として活躍してくれたが、流石に長年使用した事で生地が弱まってしまい、時々袖を通す位にしか着れなくなっていた。

その後襟元近くの生地が裂けてしまって、もはや修復不能と、押入れの中で長い眠りに入ってしまった。

 

前回Gジャンの袖の修理をしてもらったお店に相談したところ、修復可能との事。

お店の人からしたら、さほど難しい修理ではないみたい。

「裂けている部分の近くの縫い目を解いて裏から当て布をして、上からミシンをかけるので目立ってしまうけど構わないですか?」との事だったが、こちらからするとまた着れるなら全然問題ない。

もう一着、アノラックのパーカー部分のハトメから生地が裂けていた部分の修理と、袖のベロクロの修理もお願いした。

こちらの服もよく着ていたもので、20年以上は経っていると思う。

 

出来上がりの連絡があったのでお店に行って、修理した部分の説明を受ける。

全然問題ない仕上がり。

これでまた着れる。

全体的に生地が弱ってしまって、洋服の年齢からするともう年寄りと言っていいだろう。

大切に着ていきたいと思う。

 

私が幼い頃は、靴下に穴が空いたりしたら母が繕ってくれたものだ。

別に貧しかった訳ではない。

そういう時代だったのだ。

まだ物が少なく、大切にしないといけなかった時代。

今の様なファストファッションの到来で、シーズン毎に似た洋服を買い替える文化は無かったのだ。

服にしろ何にしろ、何かを生産する時にはエネルギーを使う。

古着もリサイクルする時には、エネルギーを使う。

リユースされる事も、リサイクルされる事もなかった服の行き着く、服の墓場の様な場所があるそうだ。

もし自分の家の前に大量の古着の山がいくつもあり、それが悪臭を放っていたらどんな気分だろう。

本当の豊かさとは何だろう。

 

私が修理してまた着るのは、愛着があるから。

私が考えるエコロジーは、省資源で多機能な優れた物を使うことではなく、修理しながら出来るだけ長く使用すること。

物の寿命を全うさせること。

それに尽きるのです。

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