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THE BERLIN WALL

日記

部屋の掃除をしていたら懐かしいものが次々に出てきて、その度に作業が中断され一日が終わってしまった。

当時友だちがやっていたお店で買って、すっかりその存在を忘れていたもの。

最近じゃ「ベルリンの壁」といっても知らない人いたりして?

でもコレって本物?

ベルリンの壁

それまでは豪雨が続いた、だがこの8月の暑い日は快晴だった。街の端に静かに横たわるコンクリート板と、クレーンの情景を妨げるものは何もなかった。闇が充ちると、それは幾千もの別の夜と何ら変わるものとは思われなかった。

 しかし、1961年8月13日の真夜中、軍隊は街を封鎖するように命じられた。まずは、何マイルもの有刺鉄線(これは、目立たぬよう西ベルリンの会社から調達されたものだった)を、数百人の東独軍が迅速に敷設した。そしてすぐに有刺鉄線は、もっと険悪な持続的存在-ベルリンの壁-に置き変えられたのだった。

 ベルリンの壁は、3~4mの高さの動かぬコンクリートの蛇体である。うねり、くねり、無目的に角を曲がり、道や庭を横切り、ヨーロッパで3番目に大きな街を分断した。ベルリンの壁を真直ぐに伸ばせば、それは百マイル(約160km)にも及ぶものだった。

 壁の裏側、百ヤード程東独に入ったところには超えることのできない、もう一つのコンクリートの障壁があった。その間の水平な地面、それは平坦で、荒れ果て、そしてもっとも危険な・・・・・・武装兵と解放された犬とにパトロールされる“無人の地”となった。

 しかも自動機関銃が点在され、また一定箇所には地雷も敷設されていた。285箇所もの高い見張り台が景観をより険悪なものにしていた。

 壁の東側の面は平らできれいだった。天辺の端は手が掛かられないよう丸かった。弱い箇所は常に改良、改修、補強、再築され、全構造体が緻密に維持された。

 ベルリンの壁は、逃げようとした多くの国民を何としても保持しようとした国家がパニック的に作り出したものだった。壁は立った、しかしほんのまれには小さなほぐれから、何とかすり抜けることもできた。

 1.5メートルもの厚さの壁を越え、又、潜り回り、まれには破壊して通り抜けた。

 しかしながら、1989年11月9日以前には、東と西両ベルリンの人々が、ベルリンの壁の上で一緒にダンスをするなどということはあり得なかった。家族や友人が再会し、見知らぬ人同士も歌い抱き合い、歓声をあげた。“壁は消えた!”この冷戦の傷が深く苦しいものであったが故に、今や、自由というものをよりいっそう痛切に感ぜずにはいられなかった。

 両ベルリンの街は、歓迎と好奇心の人々-まるで祭りを見にきた子供のように、今まで見ることさえできなかった隣の外国を一目見ようと-で埋めつくされた。人々はシャンパンを飲み、夜を徹して祝い、傷を癒した。

 ある物はハンマーを持ち、ある者はノミで、ある者は指の爪で直接、人々は圧倒的な希望への思いで壁をくずし始めた。新しい通路が正式に作られることとなった。

<同封されていた説明書の文章を転記>

THE BERLIN WALLの画像